活動記録
 
 
     
 
シルクロード 西域南道
南部光一郎 (34年卒)
「上に飛鳥なく、下に走獣なし…唯死人の枯骨を以て道しるべとするのみ」と法顕が記したタクラマカン砂漠は、ウィグル語で「タッキリ・マカン」“生きて還れぬ広大な死の大地”を意味すると云う。
この広大な砂漠にも崑崙(こんろん)山脈に源を発する幾つかの清冽な河川が流れ、緑のオアシスを形成、幾多の民族が争奪興亡を繰り返した。古代オアシスを結ぶ西域南道は殆んどが砂に埋没し、今は辿ることすら出来ないが、かつては仏教東漸の主要ルートの一つであり、東西物資の交易路でもあった。玄奘三蔵がインドからの帰途に通過、マルコポーロもこのルートを辿って長安に至っている。
   西域南道地図
*クリックすると拡大画像を表示します
砂に埋もれた遺跡は19C末ヘディンやスタイン、日本の大谷等の探検、近年の日中合同調査等により、次第にその実態が明らかになりつつあるが、未だに本格的調査は及んでいないものも多く、地球上に残された数少ない未知の世界であると云い得よう。
私にとっては、旧友故吉岡攻君と共に行ったインド、タジキスタン、ウズベクスタン、同横山正文君、溝渕清彦君等と行った黄土高原から西安に至る旅、家内同道のツアーで行った北部パキスタンの旅等々を繋ぎ合わせると、仏教伝来の一つのルートを概ね完結出来ると考え、年令体力からして許容される最後の冒険的旅行に参加しました。
以下訪ねた遺跡を写真と共に解説します。
 
 
■ラワク遺跡
ラワクはウィグル語で「高い寺」の意で、ホータン北方50qの此の一帯は大きな寺院であったが今は全く砂に埋もれ、後漢(1〜3C初)の頃の仏塔とそれを囲む方形の壁のみを見ることが出来る。スタインにより発見された時・壇壁面はガンダーラ様式の彫塑像で飾られていたと云われるが、今は埋め戻されて見ることは出来ない。往時仏塔は7.5mあったと云われるが現在は3.6m(写真@)。全高で20m近い大建築であった。 
 
■ニヤ(尼雅)遺跡
今回の旅のハイライト。現在の西域南道民豊の町から120q北方の砂漠に埋もれた精絶国(BC1〜AD5C)の遺址である。東西30q、南北12qの広い範囲に480戸と云われる住居や果樹園、寺院、墓地、城塞等の遺構が散在している。1901年スタインにより発見され、発掘された大量のカロシュティー文字(インド西北部で使用されていた古代文字)の木簡により、古代西域諸国の実体が解明されたことで有名である。
 
 

@ラワク遺跡

ニヤ(尼雅)遺跡 後年は鄯善国(桜蘭)の一州となり、兵も駐屯していたらしい。城壁の一部が残る。古代西域南道は此の辺りを通過していた?

   
Aカバクアスカン村にて   B砂漠で見た茸。砂は塩分が多い  

C幾つもの砂丘を越えて
やっと見えてきた仏塔

10月18日、民豊よりニヤ川沿いに北上、イスラム聖廟のあるカバクアスカン村(写真A)にて2台の砂漠専用車に移乗。細くなった川の流れが砂に消えるとやがて辺りは広漠たる砂漠となる。此処でも今夏の異常気象で100年振りの豪雨が降り、低地は洪水になったと云う。水の引いた川底と思しき所に早くも茸が生えていたのは驚きだった(写真B)。
標高が高くなると小高い砂丘の波が何処までも続く地帯(写真C)。一つまた一つスタックを繰り返しつつ越えて行き、日没近く漸く遺跡の中心にある仏塔の近くに到着、テントの設営をした(写真D)。
1800年前の仏塔は現在の高さ5.6m、崩壊が進みつつあるが、風化に耐えて佇立する姿は雄々しく美しい(写真E)。
厳しい昼夜の温度差、遠慮なく侵入する飛砂に悩まされつつ此の地に3泊し、同行したホータン文物管理局副局長カスム氏と現地ガイドの案内で、北へ、南へと20ヶ所程の遺構を探索した。
先ずはテントに程近く、仏塔の裏山に頭蓋骨や多くの人骨が散乱しているのを見て仰天!(写真F)
 
   
Dテントの設営   E夕闇迫る仏塔   F頭蓋骨に仰天
 
遠くからは半ば埋もれた胡楊の柱が林立して見える住居跡は、玄関を入ると往時の間取りを辿ることが出来、中には天井の梁や入口の鴨居が残っているものもあった(写真G)。タマリスクや編み葦の上に泥土を塗った壁の一部は家屋の構造を示していた(写真H)。
何の家も台所であろうか、壷や皿の陶片、穀物の残骸、動物の骨等が散乱し、生活臭の感ぜられる一角があった(写真I)。
裕福な家では氷室まで設けて氷を貯蔵、夏の涼をとっていたのを知り驚いた。家の周辺には柳の木に囲まれた貯水池と果樹園を配し、葡萄、桃、杏、棗、桑等を栽培していた(写真J)。考えてみると衣食住は基本的に我々と差程変わらぬ生活をしていたようであった。
此れら住居跡で見たもの、大柱の台座、飾り棚の板と脚部、壷や皿の陶片、鞍形擦り石(製粉用)、砥石、ねずみ捕り、ヨーグルトを作る木の筒、木椀の断片、糸車、木綿の布、フェルト靴の木型とフェルト、木簡の表の一部、穀物の残骸等であった。
 
   
G花の家と名付けられた住居跡   Hタマリスクを編んだ壁   I家の一角には陶片が散乱
  
文物官が同行しているため遺物の収集は出来なかったが、お目こぼしで若干の小陶片は持ち帰った。やはり線描きされた曲線にはヘレニズムの流れを感ずるものがある。
この楽園の地も3Cの後半頃、川の流れの変化で水が枯渇し徐々に放棄されたと考えられている。アーリア系と云われる住民やその子孫が何処へ行ったかは今も謎である。
 
 
J果樹園の跡
  ■エンデレ故城
10月21日、砂漠車のまま西域南道を経て、エンデレ川に沿ったアンディール牧場にキャンプ地を移動。翌22日早朝にエンデレ故城を見るため再び砂漠へ。葦の草原を抜けた辺りから風が強くなり、遂に砂嵐となる(写真K)。無理に砂丘を越えようとしたところで車がスタックしハブの辺りを損傷、嵐の中での修理となる。先行車との交信不良のため現地ガイドのミナワさんが歩いて連絡に行く。その姿も忽ち砂に掻き消されてしまった。
何とか到着したエンデレ故城はトカラ(覩貨邏)国の跡、三蔵の記録にもある。中心にある「シャンヤンターグ」の仏塔は漢代2〜3Cのもので高さ9mの立派なもの(写真L)。仏塔のある内城を囲んで唐代の城壁「ティム」がある。スタインの調査後全く調査されていないとのことで大変興味があったが、もうこれ以上進むことは出来ず2.5q離れた外城に行くことは断念した。
内城一帯には陶片が散乱していたが、形のあるものは殆ど無く、砂の舞う中辛うじて数片を収集、這々の体で車に舞い戻った。
キャンプ地も砂嵐の中、テントは旗めいて飛散寸前。大急ぎで撤収し管理小屋に避難、夜は雑魚寝となったが、やはり何と云っても屋根の下、久々に安眠した。
 
チェルチェン古城
10月23日、2800年前の坐葬ミイラのある家族墓「ザホンルク」古墳を見て、湨沫国(折摩駄那国、チヤマダナ国)の跡、チェルチェン古城へ行く。漢唐時代の都市遺跡であるが、周囲50qの荒野に展開しているため掴み所がない。仏塔は無く、小高い砂の丘の上に土塁の跡が散在しているのみであった(写真M)。住民はアーリア系の民族で盛期の人口は15万人に及んだと云うが本格的調査は行われたことがなく、詳しいことは全く判明していない。何故か辺り一面驚く程の陶片が散在していた(写真N)。何れも徹底的に粉砕された小片許りで形の残るものは全く見掛けられなかった。
帰途はコビの中で車2台が共にスタック、救援車を呼んでやっと脱出した。
 
K砂嵐の中エンデレ故城に向う  
Lエンデレ故城「シャンヤンダーグ」の仏塔
Mチェルチェン古城
Nチェルチェン古城 散在していた陶片
 
 

 

■ミーラン(米蘭)遺跡
10月24日寒気厳しい日、米蘭へ。1907年スタインが探検、北方の寺院跡からヘレニズムの色濃い「有翼天使像」の壁画を発見し有名となった。
一帯は44kuに及び古代楼蘭国の都城跡であったとも云われる。アルチン山脈からの寒風の中、6〜7C吐藩が築いた城塞跡の城壁、見張台、兵の住居跡等を見る。期待していた北方の寺院へは2.5qの距離であるが悪路のため普通の車では行くことが出来ないと云う。
戻り道で一群の仏塔をゆっくり見る。ストウーパ型が2ヶ所(写真O)、丸型が4ヶ所(写真P)残っている。僧が居住した跡もあり一帯は修業の場であったようだ。丸型は瞑想室であったと云う。
なお、チェルチェン古城、米蘭ではカメラ1台につき100元を徴求された。
 
  Oストウーバ型の仏塔
 
  P丸型の仏塔
   
漢族の子供(?)とウィグル族の子供  

街角でウィグルの少女、
ウィグルの小モナリザ?

  Qラグメン
かつて秘境と云われていた西域南道も軍事上、開発上(石油)の必要から道路は格段に整備され、贅沢は云えぬまでも宿泊施設も我慢出来る水準になっている。砂漠に入らぬ通常の旅であれば全く問題はない。
まだまだ日本人は少なく、タジク人かと問われることが多かった。人懐っこい碧眼の子供達や人々との街角交流、砂漠で喉を潤したハミ瓜や水瓜等の果物、田舎町の食堂で供されたラグメン(写真Q)やポロ、試食したナン、サモサ、ケバブ(写真R)の味等々忘れ難い思い出である。
今回訪れることの出来なかった歴史遺産も数多く、然も殆どが未調査で残されていることも興味をそそる。天山北路や南路のみならず多くの人々に訪れてほしいものである。
 (本ツアーは西遊旅行にて年1回実施されています。)          了
 
  Rケバブ

 

 

 

 

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